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趣味としての読書について考える

 履歴書の「趣味」欄に「読書」と記載することは、無趣味な奴のやることだ、という言説がある。

 私は正に履歴書の「趣味」欄に「読書」と書く人間なのであるが、この言説には反対したいと考えている。
 趣味という言葉を楽しみで行っているものと定義するのであれば、読書は趣味でいいじゃないかと思う。
 本を読むのはもちろん、どんな本を読もうかと本屋や古本屋をうろつくだけでも結構楽しいものなのだ。
 まぁ、上記言説も、趣味が読書である人間だけでなく、無趣味な者も履歴書の「趣味」欄には「読書」と書く、という意味に過ぎないのかもしれず、そうでれば特段反対するものではないのだが。

 最近、やはり読書を趣味とする方(以下Aさんと呼称する。)とお話する機会があった。読む本云々だけではなく、本の買い方からして自分と異なる方向性を持っている方で、そういう楽しみ方もあるのだなぁと印象に残った。

 私は、古本屋に行って安売りの棚をのんびり眺め、なんとなく気になったものを適当に20冊とか30冊とか買い溜めるという入手方法を主としており、読む本の傾向としてはフィクションのものが多い。
 Aさんは、何らかのきっかけで興味をもったテーマに関連する書籍について、ネット注文で大量に買い込むタイプで、どちらかというとノンフィクションのものを好まれるようだ。

 Aさんのやり方を真似してみようかなぁとも思ったのであるが、意外と障害が多いので躊躇している。
 第一には、私は趣味として読む本について、あらかじめ明確な主題を立てて選ぶということが苦手である。むしろ、古本屋で行き当たりばったりに手にとって見ることが好きだったりする。
 第二に、テーマに沿って関連した本を選ぶということは、フィクション主軸の読書方向とは微妙に馴染み難いところがある。テーマを多少抽象化すればよいところであろうが、事件や人物にスポットを当てたフィクション作品に限定すると、意外と冊数が多くならない。
 何よりも、ネットで網羅的に注文するという手段は、1冊基本105円で勘定している私の経済感覚に合致しにくい。

 気になったテーマがあれば第一、第二の点は乗り越えられる気がするが、最後の点は非常に厳しい。

 自分の読書の幅を広げるいい機会になるかと思ったのであるが、社会人になっても1冊105円の安売り棚から離れることのできない貧乏性が邪魔をする。
 要は世の中金であるなぁと、改めて思うのであった。 
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中のモノについて考える

 愛用しているモノが壊れるというのは、妙に寂しいものであるが、最近またこれを体験する破目に陥った。

 壊れたモノはいわゆるアンクルウェイトである。真面目にトレーニングをしているわけではないが、職場への行き帰りにおける運動強度を少し上げるのもよいかと考え、ここ数年使用してきたものである。今回壊れたアンクルウェイトは3代目にあたるが、先代、先々代は壊れたわけではなく重量を上げる関係での引退であった。つまるところ、アンクルウェイトがぶっ壊れたのは今回が初ということである。
 さて、どのように壊れたのかというと、ウェイトを固定するためのバンドの周辺部分が擦り切れ、中のモノが出てくるようになってしまったのである。

 ある日、職場からの帰りにアンクルウェイトを着けていこうと取り出して机にどかっと置いたところ、何やら砂粒のようなものが机に散乱した。よく見ると、金属製の小さく平べったい円柱状の物体である。これはなんだろうと思いつつ周りを見回すと、アンクルウェイトからこぼれでていることがわかった。
 自らの中のモノをぶち撒けているアンクルウェイトを見ると、なんだか、介錯人なしで切腹するときは、腹を掻っ捌いた後に自ら内臓を掻き出すという日本の伝統的儀式の風景を連想し、なんだかしんみりとした気分になったものである。

 と同時に、私は日常で中のモノをあまり気にせずに暮らしているな、ということを感じたのである。
 アンクルウェイトの中のモノを見たときの「これはなんだろう」という第一印象は、取りも直さず、日頃アンクルウェイトの中のモノのことを何も気にせず生きてきたことの証なのではないかと思う。

 先ほど、中のモノが出てくるということから、切腹を連想したことを書いたが、普段気にせずに暮らしているというと、人間の中のモノについてもそうである。
 筋肉でも脂肪でも骨でも内臓でもいいが、これら人間の中のモノは、あらゆる人間の中で懸命に働いているにもかかわらず、多くの人に特に意識されずに日々を過ごしているのではないだろうか。
 一部のアスリートや腑分けをする医者等は、これらのモノを気にすることがあるだろうが、大多数の人はそうではあるまい。

 それどころか、中のモノであるという認識すら危うい。
 「人は外見じゃなくて中身だよ」という言説を聞くことがあるが、この場合の「中身」というのは、ある人間の言動によって、その人間と関係する者にとって一緒にいることが快いと感じるかどうか、という外部に現れるものをもって何故か「中身」と称しているのだ。言動というものが性格だとか身体運動だとか、体の内部に端を発するものであることから、「中身」と称しているのであろう。
 間違っても、もろに人間の中のモノを評価し、「あの人は、脳下垂体がいい色してそうだからステキ!」とかいうことにはならないのである。
 人間の中のモノというやつは実に不憫である。

 以上のような次第で、人間の中のモノについて、もっと人々は意識してやる必要があるのではないかと考えた。
 そのようなことを友人数名に話したところ、いずれも「いや、いいよ、なんかグロいから……」というつれない反応であった。
 人間の中のモノというやつは実に不憫である。
 

変化というものを愛でてみる

 最近、自分も変わったなぁと思うことがしばしばある。
 まぁ、自分の体も刻一刻細胞が死んだり生まれたりしているわけで、変わるのも当然と言えば当然かもしれない。そういうことを考えていくと、個体としての同一性だとか私とは何なのかとか、色々とよくわからないことがあるものだ。
 
 それはそれとして、変化というもの、あるいはそれに伴う状態の儚さというものに、美しさを見出す価値観があるような気がする。
 「祇園精舎の鐘の声……」で有名な平家物語の冒頭や、「ゆく河の流れは絶えずして……」の方丈記等が名文とされているのは、音の美しさだけでなく、そのような変化や無常についての美意識が人々にあるからなのではないかと思うのである。

 してみれば、自分も変わったなぁと思うことをしみじみ味わってみれば、幾何かの美しさを感じられたりするのかもしれない。
 というわけで、最近変わったなぁと思ったことを書き出してみることにする。

 ①胃が弱くなった。油や酒を入れたり、あるいはモノに関わらずそれなりの量を入れたりすると、翌日に胃もたれがする。某ハンバーガーチェーン店でセットにポテトをつけてしまったりすると、食べきるのに苦労する。某牛丼チェーン店でも大盛りを頼まなくなって久しい。

 ②寝ても疲れがとれなくなった。昔に比べて、微妙にダルいと感じる寝起きが増えた気がする。一晩寝たら全回復とかいう某ゲーム的な発想が切実に羨ましくなる。

 ③筋肉痛が2日後に出る。昔に比べて、運動をしてから筋肉痛を感じるまでの時間も長いような気がするし、回復も遅いような気がする。

 結論として、正直あまり美しさを感じない。どうやら私は移ろいゆくモノに対する美的感覚がまだあまり鋭敏ではないらしい。これからこの美的感覚が変化していくことを待ち望むとしよう。

理解について考える

 「ある対象(他人や物事)を理解する」という言い回しがある。
 「理解する」という言葉の意味が色々と難しいことはありそうであるが、とりあえず、「まぁそういう気持ちになる(そういうことになる)こともあるよな」、という感想を抱くことができるということを、この言い回しの意味するところだと考えておこう。

 こういった「理解」は、日常の人間関係での摩擦を避けることや、望ましくない出来事に出会った場合にストレスを軽減することには有用であろう。
 ただ、有用であるからといって、そう簡単にできるものでないこともある。

 私は、できるだけこのような心境に至ろうと試みているつもりではあるのであるが、どうにもうまくいかないときがあるものだ。

 先日、仕事の関係である書面を受け取った。その中の挨拶文の冒頭にはこう書かれていた。
 「お世話になってやります。」
 
 「お世話になっております。」と表記するところを誤ったのではないか、という推測はできる。
 しかしながら、その文章はワープロソフトによって作成されたものであることを考えると、なんだかよくわからない。キーボードをみると、ローマ字入力において「お」と「や」を入力するに必要なキーは離れて配置されており、打つキーの数も違う。通常ワープロソフトを使用していて生じる誤りとは考えにくいのである。理解できない。

 これを説明する仮説は2つあり、①文章の作成者は、ローマ字入力でなくかな入力を愛用している(かな入力であれば、「お」と「や」は隣同士のキーになっている)、②つい本心が出た、ということが考えられる。
 ②でないことを切に願うばかりだ。

サンタの価値は

 サンタクロース(以下、幾許かの親愛の情を込めて「サンタさん」と表記する。)というのはなかなか興味深い存在であるなぁと思う。
 自分の理解では、4世紀ころのキリスト教における聖人がモデルだとかなんだか言われ、赤白を基調とした服を着たふくよかな老人として描かれる、空飛ぶトナカイという不可思議な生き物に橇を引かせてクリスマス(又はクリスマスイブ)の深夜に徘徊し、居宅に何らかの方法で侵入して年少の者の枕元まで近寄ってプレゼントを置いて去るという妖怪じみた存在である。
 多くの人に好ましい存在として理解されているようであるが、プレゼントを置いていくという一点を除くとどうであろうか。正直、プレゼントなしでのサンタさんは人々に愛されないのではないかと思っている。
 「サンタさんを信じている」という子供がいると、なんだか純真で夢があるような印象を受けるところである。しかし、プレゼントを本質とするサンタさんを信じているというのは、物欲旺盛で楽観的であることに由来するともいえると思う。こういう表現をすると、とても純真というイメージとは結びつかない気がするのである。

 さて、そんな物欲に塗れた夢を振りまいてくれるサンタさんであるが、この夢を与えるということだけでなく、別の存在価値が、サンタさんにはあるのではないかと最近思っている。

 職場の先輩と食事をしているとき、家族へのクリスマスプレゼントの話題となり、そこから昔サンタさんを信じていたか、それはいつまでであったかという方向に話が転じた。
 ある先輩が以下のように述べた。「小学4年生まで信じていた。その年のクリスマス近くに、両親が(その先輩の)従兄弟にプレゼントをあげるという話をしていた。後日従兄弟に与えられたプレゼントをみると、自分がサンタさんからもらったプレゼントと同じ包装がしてあった。このことで何かヘンだと思って両親を問い詰めたところ、プレゼントを置いたのがサンタさんでなく両親であったことをあっさり認めた。『あ、バレちゃった?』とか気楽に言っていたが、結構ショックだった。」
 この先輩は、小学4年生にして、この世で最も信頼していたであろう両親に、騙されていたことを知ったのである。
 これを聞いてふと思ったのである。

 サンタさんが我々に与えてくれる最大のプレゼントは、この「信じていた人に裏切られるという経験」なのかも知れない。

 なかなかシビアですね、サンタさん。
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Author:大往生
 一応法律関係の仕事に就いている。
 趣味は読書、ゲーム、惰眠、仮面ライダー視聴等のダメ人間。
 悟りを開きたいと思っている。
 なんとなく文章が上手くなりたいと思ってブログを書いてみる。

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